霧島神宮は焼失して遷宮された!?薩摩藩主『島津吉貴』との関わりとは

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鹿児島県にある『霧島神宮』。
今から約1,500年前、
天孫降臨の地とされる【高千穂の峰】から、始まったと伝えられています。
現在の場所ある霧島神宮は、約300年前に遷宮されたものです。
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霧島神宮と薩摩藩主『島津吉貴』
太古より霧島神宮は、
度重なる噴火や、失火による火災に見舞われてきました。
現在の御社殿は、1715年に寄進され、重建したものです。
この霧島神宮に寄進した人物が、
『島津吉貴』(第4代薩摩藩藩主)です。
(島津斉彬は、11代藩主)
当時にしては長命で、73歳でその生涯を閉じます。
- 徳川綱吉
- 徳川家宣
- 徳川家継
- 徳川吉宗
島津吉貴は生涯を通じて、この4人の将軍に仕えました。
第4代藩主としての島津吉貴
吉貴が藩主の座に就いたのは、30歳のときです(1704年)。
その5年後に、琉球で大飢饉 が起こります。
(餓死者3,200人)
このとき、白銀2万両、米3,000石を救援しました。
1711年に琉球では、失火により 首里城正殿 が焼失。
しかし再建に必要な、
木材の調達に苦心したため、薩摩藩に救援を要請しました。
救援要請に対して吉貴は、
19,500本の原木を寄贈したため、首里城正殿は再建することができたそうです。
またこの時期には、
琉球を経由して伝来した『さつまいも(甘藷)』が、主要作物として普及しました。
それによって、餓死者は大幅に減ったとされています。
仙巌園時代の島津吉貴
吉貴がまだ藩主になる前、
1702年には仙巌園内で、御数寄屋を開いて、茶会を開催しています。
数寄屋:茶席・勝手・水屋などが備わった別棟の茶室
1721年に隠居したのちは、
この仙巌園に住み、子の継豊を補佐したため、仙巌園が藩政の中核となりました。
1736年には琉球を通じて、
中国から江南竹(孟宗竹)を取り寄せ、仙巌園に植えています。
関吉(現鹿児島市下田)から、仙巌園に至る
- 吉野疎水
- 仙巌園曲水庭園
これらも、
島津吉貴の時代に造られたと、考えられています。
そして、1747年、
仙巌園において、73歳の生涯に幕を下ろしました。
後の11代藩主、島津斉彬は、
吉貴のことを、どのように伝え聞いていたのでしょうか?
NHK大河ドラマ『西郷どん』も、
この仙巌園にて、撮影がされていました!(第5話)